地下鉄サリン事件

2018/10/18
 
この記事を書いている人 - WRITER -

オウム真理教死刑囚の刑執行に関して、7/26中国新聞に掲載された辺見庸さんの特別寄稿「この国では祝祭にも似て」の中で、地下鉄サリン事件の朝の様子を記載した部分に驚きと恐怖を感じました。

よくかんがえれば、あきらかに異常なのである。しかし、みながそうと判じるまでには、短いようで案外に長い”空白の時間”と、気だるい日常動作の継続があった。空白の時間にあっては、意味と価値がはらかなくなる。すると、人の群れはどうするのか。普段の集団的イナーシャ(慣性)にしたがうのだ。職場に向かうものは、軍隊アリのごとく、いつも通りの歩調で進もうとする。倒れふすものが視界にあっても、群は乱れない。近よってたすけようとはしない。むろん例外はいくつもあったのだが、あの日の朝は当初、あまりにも静謐で、ぞっとするほど整然としていた。

事件のテレビでの報道は、すでに”空白の時間”は過ぎ去っていたのでしょう。私が知っている地下鉄サリン事件は22年間ずっと、喧騒しかなかった。そこに居合わせた辺見庸さんの的確な記述によって、この事件の恐ろしさを一層感じました。「あきらかに異常」でありながら、”空白の時間”が生まれるほど、瞬時には受け入れ難い、それまでの人々の常識から逸脱した事態。静謐でぞっとするほど整然としていた様子を思い浮かべると背筋が凍るおもいがします。

 

そして人の群れが普段の集団的イナーシャに従ったということ。イナーシャを止める反力が効かなかったのは、あまりに異常なために処理が遅れたのか、認めたくない防衛反応なのか、、どういうメカニズムがわからないけれど、「軍隊アリのごとく」整然としている人の姿や自分も同じ人であること、原始的なのに未知の逆らえない何かがあることが恐ろしい。

この記事を書いている人 - WRITER -

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 八ノヒブログ , 2018 All Rights Reserved.